岩沼市の沿岸部には、「相野釜(あいのかま)」「藤曽根(ふじそね)」「二野倉(にのくら)」「長谷釜(はせがま)」「蒲崎(かばさき)」「新浜(しんばま)」の6つの地区があり、東日本大震災前は515世帯1784人が暮らしていました。東日本大震災の大津波により、人々は沿岸から内陸へ約3km離れた場所に防災集団移転し、「玉浦西」という新しいまちに移り住みました。
「千年希望の丘」は、太平洋沿岸に沿うように掘削された日本最長の運河「貞山堀(ていざんぼり)」の東側に築造されており、被災した6つの地区を活用し整備されています。被災前の集落名は、千年希望の丘の公園名として残されています。また、園内には、家の基礎や蔵、生活道路など、各地区の震災遺構が残され、人々の営みを伝えています。
相野釜(あいのかま)
・被災前 人口 417人、136世帯
・製塩場として塩をつくる釜場があったことが地名の由来とされ、「相野釜メロン」など農業主体の地区
震災前の相野釜
航空写真(被災前)
航空写真(被災直後)
藤曽根(ふじそね)
・被災前 人口 80人、20世帯
・開墾の努力により高地としたことが地名の由来とされ、弘法大師の修行の地と言い伝えられる地区
震災前の藤曽根
航空写真(被災前)
航空写真(被災直後)
二野倉(にのくら)
・被災前 人口 359人、101世帯
・坂上田村麻呂が大蟹を穴の倉に埋めた伝説が地名の由来とされ、工場や倉庫が建つ工業団地と共にある地区
震災前の二野倉
航空写真(被災前)
航空写真(被災直後)
長谷釜(はせがま)
・被災前 人口 274人、82世帯
・製塩場として塩をつくる釜場があったことが地名の由来とされ、神明社の大銀杏に見守られてきた地区
震災前の長谷釜
航空写真(被災前)
航空写真(被災直後)
蒲崎(かばさき)
・被災前 人口 487人、130世帯
・古き時代は港町。蒲が生い茂っていたことが地名の由来とされ、仙台藩が京に献上する鮭の漁を行った地区
震災前の蒲崎
航空写真(被災前)
航空写真(被災直後)
新浜(しんばま)
・被災前 人口 167人、46世帯
・納屋の地区が新たに小村落となったことが地名の由来とされ、阿武隈川の河口の地区
震災前の新浜
航空写真(被災前)
航空写真(被災直後)
沿岸部地図と千年希望の丘マップ
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